ゆるやかな変化

「ねえ夏目、わたし夏目が飼ってる猫、見たことないんですけど」
午前の授業が終わるなり2組の教室に駆け込んできたは、つかつかと俺の席の前に歩み寄って真顔で言い放った。 弁当の蓋に手をかけていたおれは、突拍子もない話題に頭が付いていけずに、 一瞬遅れてから言葉を返す。
「ないっけ」
「ない」
「そうか」
「うん」
見つめあったまま会話が途切れてしまった。先が全く読めないのだが、おれはこのまま昼飯に入っていいのだろうか。 それなりに腹は空いていて、思わず隣の席で飯を始めた西村とそれに合流した北本の姿を横目で捉えてしまう。
「あのね、タキが言ってたの」
「タキが?」
「うん、夏目のうちの猫はどうしようもないほど可愛くて、触り心地はつるふかなんだ、って」
タキは先生が好きだよなあ、と時々思う。俺にはちょっと、理解はできない。
「いやまあ、つるふかではある、かな。可愛いってのはどうかと思うが」
「ていうか、夏目が猫飼ってることすら今日知った」
「え、そうだっけ」
「うん、わたし、猫すきなのに」
つるふかなんて、すっごく楽しそうなのに。
そうこぼすの視線がだんだんと切れ味を増している。 がつがつと菓子パンを頬張っていた西村が口を出した。
。あれは猫というよりタヌキだぞ」
タヌキ。つぶやくように繰り返してから黙り込んだは、 先生の姿をあれこれ想像しているんだと思う。
「ずっと見てればなんとなく可愛い気もしてくる気はするんだがなあ」
「胡散臭い顔してんだよな」
「そうそう」
「でも毎日迎えに来るほど夏目に懐いてんだぜ」
の眉間のしわが深くなっていることに気付いていない様子の西本と北村が続ける。 たぶん、はもうすぐ
「みんなは知ってるのにわたしだけ知らなかったのね」
なんて言うのだ。うわ、やっぱり。 おれが想像と現実のの言葉が重なったことに小さく感動している隙に、当の本人はいつのまにやら悲しげな表情を湛えていた。
まさにくるくると変わる表情。吹き出しそうになるのを、必死に抑えて取り繕う。
「ごめんごめん。別にわざと教えなかったんじゃないよ」
返事はない。
「今日会わせてやるから、それで許してくれ」
「…ほんとう?」
「うん、帰り、一緒に帰れば会えるから」
その瞬間、は顔をあげて本当に嬉しそうに笑った。 約束、と言い残し、来たときと同様に教室を駆け出ていく。 思わず三人でその後ろ姿を見つめてしまった。
「嵐のようだったな」
北本が言って、西村が笑った。おれも、笑う。
はニャンコ先生を見て可愛いと言うだろうか。 タキのように抱きしめるか、それともこんなの猫じゃないと驚くだろうか。 さっきのようには反応を想像できない。つまり、それはおれがまだまだのことを知らないということ。そこまで近くはない。 けれど、けれどこれから、きっともっと知ることができる。知りたいと、思う。

自分が知るだけじゃなくて、いつか、知ってもらいたいと思う日が来るのだろうか。
ちらりと頭の隅で思う。今はまだ、答えは出ない。

(2010,10,10)